同じく81年のモナコGP

あるコースマーシャルの証言では、
ジルが通るたびにいつも決まって「ドスン」と音がするので、
いったいなんだろうと注意深く見てみると、
毎周正確にガードレールでスライドしたリヤタイアを軽く止めながら走り去るジルの126Cがいたそうである。
 
文章だけでは伝わりにくいと思いますので、
現存してる彼のレース映像でも屈指の名勝負といわれる、
1979年のディジョンサーキットで行われたフランスGPでの、
ルノールネ・アルヌー(黄色いマシンがルネ、赤いマシンがフェラーリのジルです)との
サイドバイサイドでの激しい一騎打ちの映像が残っていますので、
それを紹介します。
http://www.formula1news.it/video/dijon79.zip
いかがでしょうか?今のF−1では絶対に見れない光景でしょう?
ホイールをぶつけんばかりに接近し、激しくスライドしながらコーナーを駆け抜け、
時にコースアウトして土煙を上げながらの攻防戦。
レース後、クレイジーすぎると言ったマスコミに対し、
マリオ・アンドレッティ(今は亡きチームロータスでチャンピオンになったこともある名レーサー)は、
こうマスコミに語ったそうです。

「何がまずいんだい?若い二頭のライオンが牙をむきあっただけじゃないか」

と。
 
追記
ジルはその死もまた劇的でした。
1982年、ジルはようやくチャンピオンを狙えるマシンを手にします。
イギリス人デザイナー、ハーベイ・ポスルズウェイト博士デザインの126C2。
その年のパートナーはディディエ・ピローニ
悲劇の序章はこの年のサンマリノで始まりました。
当時、チームオーダーで1−2で走っていたら前者を抜いてはいけない、
というのがあったのです。そして、その時のオーダーはジル−ピローニでした。
ピットから「SLOW」の指示。それに従い速度を落したジルを、
よりによってピローニは追い抜いたのです。
チームメイトの裏切りに気づき、速度を上げたときにはもう遅く、
優勝はピローニに。
レース後、ピローニはこうコメントしました。

スローのサインは優勝できると思っても優勝するな、という意味じゃない。
ジルが僕を恨まない事を祈っているよ。時間が傷を癒してくれるさ。

ただでさえ怒り心頭だったジル、これで完全に大激怒。

もし、逆に彼が僕の前を走っていたら彼のリードを奪う事はしなかったはずだ。
僕は彼の事を理解 しているつもりだった。
関係はいつも良かったし、彼の事を信じていたのに。
もし、単に負けたなら、何故もっと速く走らなかったと自分に腹を立てるだろう。
でも僕が2位になったのはアイツが奪ったからだ。
僕はイモラでも一言も口をきかなかった。そしてこれからも二度と口をきかない。絶対に。
宣戦布告だ。今度は僕のやりたいようにやる。これは戦争だ。完全な戦争だ

その次のベルギーGPはゾルダーサーキットで開かれました。
凄まじい速さで予選を走るジルとピローニ。
ピローニにタイムを抜かれると知るや、鬼気迫る表情でコースに復帰するジル。
しかし、悲劇は起きました。
タイムアタック中、アタックを終えて走っていたヨッヘン・マスのマシンのリアタイヤに、
前輪が乗り上げました。宙を舞うジルのマシン。
そのまま、紅き天馬は地表に叩きつけられたのです。
マシンは二つに割れ、生身で地表に叩きつけられたジルは、即死でした。
レースを愛し、常に限界に挑戦した一人のレーサーの死としては、
あまりにも哀しすぎる結末でした。
ちなみに、ピローニも同年のドイツGPでレース中に大クラッシュを起こし、
レーサー人生を絶たれました。
この年は、まさにフェラーリにとっても最悪の一年となったのです。
 

フレンドシップ、友情。
炎の天才ビルヌーブゾルダーで天に帰ると、タンベイの家の電話が鳴った。
主のいないフェラーリ、カーナンバー27は、親友パトリック・タンベイに引き継がれ
すぐさま西ドイツで1勝。
柔らかい手、優しい眼差し、タンベイほど穏やかで人当たりのいい
F1ドライバーはいなかった。
しかし、人柄だけでは生きていけない世界。
今は、パリダカに雄飛する。
ビルヌーブの才気、タンベイの人間味、ともに永遠なれ。
握手した手の先から、ピリリと静電気がおきた。